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片山杜秀先生が語る「読み取る」「読み解く」とは何か?
小熊英二氏「学問は流通の通念の問い直し」
学問は、流通している通念を、リサーチして問い直すことだ。
お勧めの本: 小熊氏の『<日本人>の境界』
ライフスタイル、収入など 研究計画2020
2020年レポート計画
1)しゃべる その人の味わい・・・逆概念は「プレゼンの仕方」=画一的
youtubeで集める レポートする
2)収入の獲得 その色々 例 沖縄に移住
3)小熊英二氏 一部しか見ないで述べていませんか?! 小熊さんの話の内容を参考に
テストラン-朝鮮植民地・民族独立運動
高校生のための「植民地・民族独立運動」 完成版
1)関心事
最初に、植民地の定義を確認しておく。
「植民地とは、ある特定の国家主権に服属しながらも、本国とは差別され、本国の憲法他の法律が行われていない領土。本国による制約なき政治的経済的軍事的支配が行われている。」
三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』
日韓関係は悪化し、回復が見えない。戦時中に朝鮮半島出身で日本本土の工場等で働いた元徴用工らに賠償するようにという韓国大審院判決が出たが、条約に適合しないと押し戻されている。100年ほど前の植民地であったとき、朝鮮人は人権を完全に守られていなかった。韓国人はフェアじゃないという気持ちを持つだろうし、感情のもつれが鬱積して澱のようになっている。「冗談じゃない」という日本側の嫌韓ムードもすごい。
韓国問題にしつこく取り組むネトウヨ組織・「在日特権を許さない市民の会(在特会)」は、在日韓国・朝鮮人の特別永住資格、朝鮮学校に対する補助金廃止などを訴え、ヘイトデモを繰り返している。国会や市民運動において、ヘイト取り締まりの議論が繰り返されている。
ソフトバンクのトップで有名経営者・孫正義さんが、高校の時の担任の先生の影響を受けて自分も学校の先生になりたいと思ったが、外国籍だと教師になれないということを知ってがっかりする。その担任の先生が述懐している 「唐突に安本くん(孫さんの通名)に告げられた。自分は高校を辞めてアメリカに行く。本当は日本の大学に進んで先生になりたかったんだけれども韓国籍では無理だ。アメリカに行って考えてみたい。アメリカの大学を出たら日本人が僕をもっと評価してくれるかもしれない。たとえ韓国籍でも、と」 引用:安田浩一『ネットと愛国』
なんという身分的差別か。朝鮮が植民地時代、差別が酷かったが、昭和の時代にも。それがあの有名な孫正義氏の口で語られている。
沖縄の基地問題で、”破格な”扱いを見る時、なんなんだと、琉球処分の語が口を突いて出る。それ以上に、”琉球併合”という言い方を使ったほうが良いという話を聞いた。
数日前に、選挙運動・講演会で麻生太郎財務大臣が調子にのって、「単一民族論」を口走った。国のトップにして民族問題が怪しい。
外国でも、植民地に絡んだことで、こじれた問題がある。香港では、中国が支配・管理を強化し、社会が混乱している。香港にしてみれば、150年間イギリスの植民地として扱われ、今度は中国に政治的に制約された植民地になれ、と言われているようなものだ。インドとパキスタンは、イギリス植民地からの独立過程で、宗教的な反発から分離独立した。インドは、去年、国籍法を改正し、パキスタン・バングラディシュからの、ヒンズー教徒の不法移民に国籍を与える。イスラム教徒を除外した法律改正で、衝突がぶり返されるのではないか心配されている。
労働力不足を補うために外国人の活用が日本の国の重要な課題になっている。外国人技能実習という名目で受けていたものを、雇用に切り替える。摩擦も問題になるだろう。また、外国人労働者の雇用に関する公正さが大きな問題になって、酷いピンはねやハラスメントが批判されている。
1月15日の新聞の記事で、韓国の”農村の嫁”導入-ベトナムの花嫁をハッピーに迎え、生活の基盤を整え、コミュニティに溶け込ませ、ベトナムの文化の継承にも気をつかう、多文化政策のことが出ていた。韓国はうまくやっているのか?小さな記事であるが、日本と比べると“身の軽い”韓国、意外に重要な展開になっていくのか?
このように、何十年経っても、過去の植民地問題が蒸し返される。“遺恨試合”があるし、日本人の“下手”が出てくるようでもある。ますます国際的な関係になっていく今、心配だ。私たちは、日本の植民地問題の知識が少ない。そこで本稿では、日本の重要な関係の1つである朝鮮・韓国の植民地問題を、代表的な植民地ケースであるイギリス-インド関係と比べながら、観察・分析し、問題認識を深めて行く。そのために、一般的な本であるが、要所をできるだけ多く紹介していきたい。
2) 植民地・民族独立運動 インドの場合
イギリスが支配したインド植民地およびインド民族独立運動の歴史を表にした。
| 年 | 植民地・民族独立運動の出来事 |
| 1600~ | 東インド会社によるアジア貿易 インド産綿織物が欧州で大受け 英蘭戦争で勝利 |
| 1757 | プラッシーの戦いでベンガルとフランスの連合軍を破る。ベンガルの徴税権獲得し、マイソール戦争など経てインド支配確立 |
| 1857 | インド大反乱(シパーヒーが蜂起)地税増税・イギリス機械製綿織物による打撃でインド民衆が困窮。58東インド会社廃止イギリス直接統治、ムガール皇帝廃止 |
| 1877 | イギリス領インド帝国成立。ヴィクトリア女王が兼ねる |
| 1885 | 諮問機関としてインド国民会議を設ける=国民会議派の始まり |
| 1905 | ベンガル分割令=分割統治策に反発、反英独立運動強まる。ボイコット(英貨排斥)、スワラージ(民族独立)、スワデーシー(国産品愛用)、民族教育の4大綱領。 |
| 1909 | モーリーミント改革 行政参事会にインド人追加で譲歩姿勢示す。ムスリムの分離選挙設定が後の民族分断の端緒に。1906全インド・ムスリム連盟を発足 |
| 1919 | インド統治法 州政庁に自治を導入(一次世界大戦のインド人動員・負担貢献)。 一方でローラット法=反英闘争取り締まり。同法に対する抗議の民衆を射殺 アムリットサル事件 |
| 1919 | ガンディ非協力(非暴力・不服従)の運動。大衆運動へ |
| 1930 | 独立の誓い。塩の行進 不買・税不払い・ハルタール(同盟休業)ガンディら逮捕 |
| 1942 | 「インドから立ち去れ」運動 in戦争協力状況(1941 二次世界大戦) |
| 1947 | パキスタンと分離独立 1950共和国に 初代首相ネルー |
17世紀のイギリス、アジア貿易は会社(組合)組織によって進められた。国王から特許状をいただいた東インド会社である。オランダとフランスも同様な会社組織で貿易を進めた。イギリス東インド会社は、インドの綿織物、次いで中国のお茶の輸入を扱っていた。商売の拡張のために交易や基地の整備に努めてきた。海賊対策も自分で備え、会社は軍隊を保有した。折からヨーロッパ諸国は戦争を戦っていたが、インドではイギリスとフランスが衝突した。イギリスとフランスはそれぞれインドの土俗の権力と組んで争った。1757年のプラッシーの戦いでイギリスが勝利し、ベンガルなどの地租徴収・民事裁判権を獲得した。東インド会社の性格は商事会社から地域支配者に拡大していた。
イギリスはさらにインド各地に戦いを拡大、藩王国を打ち負かした。更にネパール、ビルマとの戦いに勝利した、アフガニスタンは落とせなかったが。
本節では、イギリスの植民地政策、インドの民族独立の様子を分かりやすく記述した、ネルーの『父が子に語る世界歴史』から引用し、インドの近現代史の重要事を、ネルーの解釈あるいはネルーの実体験に基づき展開する。
独立インド最初の首相のネルーは、1889年に連合州アラハバードの富裕なバラモン弁護士の家の長男として生まれ、プール付きの白亜の家に住み、イギリス人の家庭教師がつくといった豪奢な少年時代を送ったのち、15歳のときにイギリスに渡った。イギリスではハロー校、ついでケンブリッジ大学で学び、バーナード・ショウやラスキの講義を聴き、フェビアン的な社会主義の影響を受けるなど「インド人である以上にイギリスであった」と自らも回想するほど。帰国後、ガンディの指導下の独立運動に身を投じたあとも・・会議派活動家のなかでも進歩的な国際派として知られる・・イギリス労働党との間に・・太いパイプは、インド独立に大きな力を発揮した。(長崎暢子『インド独立』P.154)
ネルーは同書・手紙109「インドにおける戦争と内乱」で、「1857年の大反乱」を書いている。イギリスの理由のない、酷く執拗な戦争の仕掛け、それに対するシパーヒー(インド兵)と呼応する民衆の反乱。インドの少数派、体制側に付く兵、多くの藩王国がイギリス側について戦ったために反乱は鎮圧された。
「イギリス人勢力は強くなるにつれて、また侵略的に、野蛮になった。それは理由をつくって、あるいは理由もなくて、戦争をしかけた。こんな戦争が幾度も起こった。・・ところで・・インドの封建体制は、もう一度最後の力をふりしぼった。1857年の大反乱だ。国中にイギリス人に対する不平不満がみなぎった。東インド会社は、金を儲ける他には、ほとんど何一つしようとしなかった。広範囲の人々を貧窮におちいらせていた。影響はイギリス軍のインド人部隊にまでおよび、小規模の反抗がくりかえされた。・・反乱は全連合州およびデリー、中部インドやビハールの一部にまで波及。たんなる軍事的蜂起ではなく、この地域の反英民衆反乱であった。・・しかし反乱の成否は、インド人自身によって定められた。シク教徒とグルカ人はイギリス人を支援した。南方のニザム、北方のスシンディア、その他多くのインド内の国々がイギリス側にたって砲列をしいた。・・イギリス人は反乱を潰滅させた。・・ナーナーサーハブ(インド側)が野蛮な姦悪なふるまいをしたというなら、多くのイギリス人士官は、その百倍も上を行ったのだ。・・1857-58年の反乱は、封建インドの最後の曳光であり、多く のものが消滅した。大ムガール帝系を終わらせた。バハードゥールの息子と孫は、イギリス士官によって、デリー護送中に銃殺された。・・反乱はまた、東インド会社の統治を廃止せしめた。イギリス政府がかわって直接の衝にあたり・・19年後の1877年にはイギリス女王がインド皇帝になった。ムガール王朝は姿を消した。しかし専制政治の精神は残り、イギリスに」
|
モスリン(綿織物)
1770年頃から流行 | キャラコ 足袋の生地のようなもの |
イギリス産業革命によって、イギリスの綿業はコストおよび品質面で力を付けていった。また、イギリス人は周到に競争を有利に仕組んだ。イギリスの商品がインド商品に勝てるように、インド商品に高い課税を課した。インドの市場への浸透のため、商品搬送の交通網を整備した。やがて、インドの産業は大きな痛手を受け、インド人は貧困に苦しめられた。ネルーは、この19世紀の綿業の痛手が、現在のインドの貧困問題の遠因になっていると分析している。ネルー『父が子に語る世界歴史』手紙110「インド手工業の破滅」から引用する。
「わたしは山師 商人の時代 と言ったが 東インド会社は インドに蓄積された 巨額の富を 運び出した。 これはインドでは なんらの反対給付もないものであった。 プラッシー以後の 18世紀後半には 金は 一方的に イギリスのみ 流れた。・・イギリス統治の第2期 は、 インドがイギリスに 送られる原料の供給源となり イギリス製品の市場となった19世紀と重なり合っている。・・ 1857年の内乱以後は、基本的政策の方向に関して 決定的な変化を与えたものではなかった。 それは政府が代表していた階級は東インド会社を支配していた階級と同じものだったからだ。
インドの経済学者 ダットが書いたように、 18世紀の インドは 大工業国であるとともに 大農業国であり インドの手織り機は アジアおよびヨーロッパの市場の需要を満たしていた。・・ 4000年前のエジプトのミイラは 精巧なインド産のメリンスで 包まれた。・・インド産の精巧繊麗な製品を買い付け、これをヨーロッパに売りつけて巨利を占めようとして来たのであった。・・ 特に インドの繊維工業 は 高度の技術に達していた。ダットは言う「 織物業は インド人の民族産業であり 紡績は婦人大衆の仕事であった」。・・都市には職人が集まり、集団生産が、100人かそれ以上の職人を雇う小さな工場ができてきた。インドはまさに転換の段階にあった。工業をいとなむ国となりつつあり、町々にはブルジョア階級が成長しようとしていた。・・このときにイギリス人が押し入ってきて、インド産業に致命的な影響を与えた。はじめのうちは、東インド会社はインドの工業を奨励した・・ところがイギリスの工業家はこの競争を好まず、政府をそそのかし18世紀のはじめに、イギリスに輸入されるインド製品に課税させた。・・インドの技術はきわめて優れていたので、勃興期のイギリス機械工業をもってしても太刀打ちができず、80%の課税を必要とするほどであった。・・イギリスは大量機械生産化をいそぎ、インドがしだいに新しい環境に適応していくことを妨げた。・・こうしてインドは工業国としての地位を失い、イギリス製品の消費者になりさがった。・・それ以来、外国製品のほうがインドに流れ込み、金や銀はインドから流れ出た。・・普通ならば、自国の産業を保護し、奨励するのが、その国の政府の義務であるはずだ。ところが東インド会社は、イギリス工業と利害衝突するものは、かたっぱしから圧しつぶした。・・はじめのうちは、外国製品のゆきわたる範囲は港町か付近に限られていた。道路と鉄道の建設が進むに従って、奥地に侵入していき、村の手職人まで駆逐してしまった。・・イギリスでも、大工場が出現したときは、職人たちは路頭に投げ出された。しかし彼らは新しい工場に勤め口を見出し、新しい環境に順応していった。しかしインドでは工場がなかった。村に帰って土地にすがった。そこには有り余る人々がいて、持つべき土地は残されていなかった。1834年に、イギリスのインド総督ペンディンクは「その惨状は経済史上未曾有のものである、木綿職匠の骨はインドの原野を白色に染めている」と報告したという。・・インドは手工業国でさえなくなり、いままでより以上の農業国になった。これがインドの貧困の問題の基礎・根本なのだ。・・19世紀のイギリスの支配のもとで、こんなありさまになってしまった。」
1900年代に入り、インドでブルジョア階級が台頭、自己主張が起きてくると、イギリスは会議を設定し、懐柔策をとる。イギリス側の政治的な工作が、ところどころで見られ(1905ベンガル分割令、1909モーリーミント改革)、イギリスの巧みさを感じる。ブルジョア富裕層に身を置く国民会議派は、イギリスに対して穏健な行動をとっていた。
ネルー『父が子に語る世界歴史』手紙147 「大戦前夜のインド」を見よう。
「1857年の反乱、それから50年。インドでブルジョワが台頭してきた・・イギリスのおこぼれをもらって・・生きていたが、だんだんに力を蓄えて インド人の権利を少しずつ主張するようになっていった イギリスの懐柔策として、会議が開催され、この時に国民会議派が始まったと言っていいだろう。この人たちは穏健派だった。イギリスはムスリムの同盟も工作した。 国民会議派 の中に 急進派ができていた(その代表的人物がティラク)・・ 第1次世界大戦が 起きたが、国民会議派はおとなしかった。」
第一次世界大戦でインドは大変に戦争協力した。“見返り”と言うのか、イギリスはインド統治法改正で州政庁に自治が導入させたが、期待されたものとはギャップがあり(“イギリスの新政策”と言われていた割には)、逆にインドを締め付ける、ローラット法案が出てきた。ガンディが登場する。
ネルー『父が子に語る世界歴史』手紙160 「ガンディの指導のもとに」、有名な“非協力運動”に関するネルーの解説を見よう。
「第1次大戦後しばらくの間は、貿易が繁栄し、好景気時代を現出・・それから不景気が始まり、貿易は減退・・工業労働者と農民の状態は悪化・・わずか数ヶ月以内に、それほど待ちに待ったイギリスの新政策の成果が、革命運動を取り締まる特別の法律を通過させる提案の形で示された。自由を押し広げる代わりに、弾圧を強化しようと・・ローラット法案と呼ばれた・・要約は「弁護不能、上告不可、証拠不要」・・法案に対する反対の声が高まる・・ガンディが戦時中に南アフリカからインドに帰り・・南アフリカにおけるサティヤグラハ闘争以来、インドでは非常に良く知られていた。国を覆うローラット法案反対の声に和した。・・ガンディは、一定の法律を破り、それによって進んで牢獄に赴く決意を持つ人たちのサティヤグラハ・サバー(真理探究修行団)を組織した。・・当時尻込みする者も多かったが今日では日常茶飯となった。・・ガンディは、イギリスが法律を通過させる決心を見届けると・・1919年4月インド中にサティヤグラハ・デーが持たれた。・・パンジャープは戒厳令が敷かれ・・4月13日アムリッツァーで大虐殺が行われ、何千という人が傷つき死んでいった。・・イギリス人は、1857年のような大規模な血なまぐさい反乱が持ち上がったのだと考えた・・アムリッツァー発砲事件の責任者のダイヤー将軍が・・上院で討議されたときには嵐のような称賛・・インドの怒りの炎はいよいよ燃え上がった。・・翌年、国民会議派は飛躍をとげ、ガンディの非協力のプログラムを採択した。」P.191
「非協力のプログラムとは、政府の行政とインドの搾取に対して政府の援助を拒否することを根本。外国人政府から与えられた栄爵や官位、職業法律家と訴訟当事者双方からの法廷に対する、・・官立学校と大学、・・参事会にボイコットが行われる・・ついで、ボイコットは文官勤務と兵役、さらに納税・・手紡ぎ、手織り、法廷に代わる調停審判所・・ヒンドゥー教徒内の不可触民の排除・・国民会議がいままでにやってきたこととは、まるきり違ったものに・・しかも重大な犠牲を意味した。仕事の放棄・・運動が成功裏に広がっていったのは・・独立の必要と、国民の貧困の重荷を軽減・・。
いかにして独立を獲得すべきか?・・たんなる抗議や請願は効果が薄い・・暴力的な反乱、蜂起をつうじた自由の勝ち取りは、武器を剥奪され・・かなうはずはない。・・これがガンディが彼の非協力運動を推進し始めた瞬間の状況であった。ちょうどアイルランドのシン・フェーン(手紙140)のように・・政府は・・とにかくインド人自身の協力の上に存立していたのだから、協力の手を引っ込め、ボイコットが実行されたならば、政府の全構造を打倒・・徹底して平和的・・だがたんなる無抵抗ではなかった。・・21年12月に弾圧が行われた。機縁は、会議派からボイコットされていたプリンス・オブ・ウェールズのインド訪問であった・・監獄という監獄は政治犯で一杯・・ガンディが逮捕され・・6年間の禁錮を宣告・・1922年のこと。非協力運動の第一段階の膜は閉じた。」
ガンディ率いる大衆運動が力を増していく。イギリスの姑息・陰険な作戦「インドが自治の適性を持っているか検査してやる」という上から目線のイギリス。そりゃ拒否されるだろうと。独立運動が高まり、それに対するイギリスの弾圧の強化。ガンディの塩の行進。非武装不服従運動と続く。10万人近い刑務所収容、1931年不服従運動打ち切りと再開、イタチごっこ。イギリス政府の情報操作、新聞の統制、インド内の保守反動分子の利用、イギリス側からの憲法改革案提案(35年統治条例の内容で)、1935年インド統治条例(無数の条件付き、州と藩邦国の連邦制)と会議派の拒否。1937年の州自治制に関して総選挙・会議派の勝利、ジグザグではあるが一歩一歩、インド人の声が高まっていく。
ネルー『父が子に語る世界歴史』手紙162 「インドの非武装蜂起」 を見よう。
「1927年・・イギリス政府は・・委員会を派遣する声明。インドが自治に対する適性を周期的に検査されなければならない・・という着想。これはイギリスのできるだけ長期間この国を掌握したいという欲望を偽装するための決り文句。国民会議派は・・拒否・・折からそのころ、1927年の12月に、会議派はマドラスで定期大会を開催し、目標がインドの民族独立にあることを決議した。(会議派が独立めざす宣言するのははじめて)
大規模な農民闘争・・労働界・・特にボンベイでは・・大規模なストライキが勃発。・・労働者指導者の逮捕。・・ベンガル総督令が公布され・・裁判せずに投獄。1930年・・非武装不服従は準備された。無数の集会で独立の誓い・・3月には、ダンディ海岸にむかって、製塩禁止法を破るガンディの有名な行進が行われた・・塩税が貧しい人たちに重い負担となって、悪税中の最たるもの・・闘争の緒に選んだ。
1930年4月・・非武装不服従運動は絶頂に達した・・イギリスの弾圧があいついだ・・10万人近い人刑務所・・ペシャワールでは大規模な非武装群衆の射殺・・1930年世界大恐慌・・農産物の価格は暴落・・税金不払い運動・・ロンドンではイギリス政府による円卓会議・・インド人(体制派)で政府の指名を受けた・・操り人形のように・・ひらひらと舞った。・・1931年3月、会議派と政府の妥協=ガンディ・アーウィン協定・・不服従運動打ち切られ。31年12月、弾圧は続き、会議派はふたたび非武装不服従を宣言。・・特務機関と情報機関がツァー時代のロシアのように権力を増長・・イギリスの宣伝機関はインドのありさまを、バラ色に塗り上げる・・後のたたりを恐れて、真相を印刷する新聞はなかった・・インドにおけるもっとも反動的な分子との連合・・封建王侯、大ザミンダール(地主、地租徴収請負人)、少数民族問題。・・農民大衆は国民会議派と同じ道を歩むように・・これが会議派の勢力を著しく強め、同時に、それに大衆的な相貌を与えた。・・イギリス政府は彼らの側の、憲法改革案を提出した。制限付きの州自治主義と封建王侯に支配的な発言権を与えることになる連邦制度が示唆されていた。・・すべての特権勢力は完全に保護され、中でももっとも重要なイギリス人のそれは効果的に守られた。ただ3億5千万人にあまるインド人民の利益のみは忘れられている・・これらの提案はインドではあらしのような反対に遭った。
1935年・・イギリス議会は新たにインドの国家組織を定めたインド統治条例を可決した。無数の条件付きで若干の州自治制が認められ、各州とインド藩邦諸国の間には連邦制度が設けられることになっていた。会議派ははねつけた。総督の手に握られる安全弁(留保事項)と特殊権限とは州自治制の実体を骨抜きするもので反対と。
インド統治条例の州自治制に関する部分は1937年に施行され、全インドで総選挙が行われた・・会議派は大多数の州で圧倒的な勝利・・7つの州で国民会議派内閣が成立・・農民負担の軽減、工業労働者の生活条件の改善・・しかしインド統治条例のもとでは広範な社会的変化は期待すべくもなかった。」
ネルーの『父が子に語る世界歴史』は1933年時点で終わっている。第二次世界大戦関連および以降の記事は、長崎暢子『インド独立』より引用する。インドの民族独立の大衆運動のヤマとして、「1905年ベンガル分割反対運動、1920年前後の非協力運動、1930年前後の「塩の行進」、1942年の「インドを立ち去れクウイット・インディア運動」を挙げている。ベンガル分割以外は、カンディが関わった。全インド規模の大衆運動ができるリーダーはカンディをおいていなかった。 長崎暢子『インド独立』
保守反動は目に余るが、個々人の生活の中に“独立問題”があり、人々はそれに関わっていられない。自分のビジネスの関わりによって政治的立場が変わる様、だから難しい。
「第二次大戦初期、インドの位置づけは本国への原料供給基地であった。イタリア参戦などの戦況変化によりインドは軍需経済自給を迫られた。製鉄、その他金属、化学製品、医療機械、電池など。これによってインドは一挙に経済的に躍進し、インド産業界は民族運動への肩入れの形を変えた。インド産業界はイギリスに対する穏健政策を希望することになった。」
イギリスにとってインドは生命線であるから、チャーチルは大西洋憲章が出ているにも関わらず、内容を否定している。それくらいインドが重要である。
1941年ローズベルトとチャーチルが大西洋で会談し大西洋憲章が発表された。憲章の中で「アメリカとイギリス両国は主権と自治を剥奪された国民に対し、回復されることを望む」と宣言している。インド人は剥奪された国民の中にインド人が含まれると判断し、イギリスにどうなんだと向かったが、1か月後にチャーチルは「インドとビルマは適用外である」と拒否して、一層の対英不信が起きた。
太平洋戦争、日本の東南アジア侵略の中でインドの軍事的重要性が増す。中国はガンディ・ネルーに会いインドの協力、援蒋ルート確保を求めた。アメリカもインドの協力を求め、そのためにはイギリスのインド独立確約が必要と認識。ルーズベルトはチャーチルに書簡を送り、「イギリスは全インド人による臨時政府を樹立するべき」と述べた。チャーチルは、体裁をとり作るため、やむなくクリップスを団長とする使節団派遣に踏み切った。しかしクリップスの提案は、藩王国の文章箇所など不明確で、会議派もムスリムも拒否した。
インドを立ち去れ運動。連合国の太平洋戦争協力の要請に対して、インドは、戦争協力のためにはイギリスの明確なインド独立の言質を求め、認められないならばインドから出ていけとイギリスへの非協力を訴えた。しかしガンディ、ネルーら会議派指導者はイギリスに逮捕された。民衆が蜂起し騒乱になり、イギリスの弾圧で多数の死者・逮捕者が出た。(結局44年2月から日本軍のインド侵攻(インパール作戦)が始まり、日本軍はイギリス軍に敗れた。)
パキスタンとの分離独立および、それ以降の、インドの国造りの部分は省略した。
3) 植民地・民族独立運動 朝鮮の場合
| 年 | 植民地・民族独立運動関連の出来事 |
| 1894 | 日清戦争 |
| 1904 | 日露戦争、1次日韓協約 |
| 1905 | 2次日韓協約(保護協約) |
| 1910 | 韓国併合(1909伊藤博文暗殺) |
| 1914 | 1次世界大戦参戦 |
| 1918 | シベリア出兵、米騒動、寺内→原敬内閣 |
| 1919 | 3・1独立運動、ヴェルサイユ条約、5・4運動、ガンディ不服従運動 |
| 1929 | 金時鐘 釜山で生まれる |
| 1937 | 日中戦争 1938国家総動員法 |
| 1941 | 太平洋戦争 |
| 1945 | 敗戦=朝鮮の解放のはずであった。米国の進駐。 新生韓国をめぐって各派出てくる。独立運動家で在米・反共の李承晩/即時独立を求める民族派の金九や中道派の呂運亨・左派の朴憲永/反日民族派による親日派粛清に恐れをなした日本統治時代の対日協力者(李の支持基盤となった)。 9月9日、マッカーサー布告第一号を発動、アメリカ軍政 9月6日に建国創建を宣布したばかりの朝鮮人民共和国(大統領呂運亨)は否認、 人民委員会にも解散令。 |
| 1948 | 済州島4・3事件 南朝鮮単独での初代選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件。 朝鮮の南北分断を固定されると危機感を持ち反対した住民のうち3万人の島民が南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、南朝鮮の民間右翼などによって虐殺された。島民の意思で動こうとする運動を、北朝鮮の介入と見られた。 このとき済州島から日本に逃れ、現在の在日韓国・朝鮮人となった者が多い。 金時鐘氏、弾圧を逃れ大阪に密航船で着く。 8月15日、大韓民国政府樹立を宣言。李承晩、初代大統領に就任 |
| 1950 | 朝鮮戦争。45年~48年、朝鮮半島の政治の形成過程が朝鮮戦争に繋がる |
近代日本が始まり、朝鮮との平穏関係ゆらぎ、砲艦外交によって朝鮮を開国させた。1868年に朝鮮に外交商業関係の近代化の申し入れ → 大院君から断られた→ 征韓論沸騰。明治6年の政変→ 1875年朝鮮西海岸に艦隊派遣(日本がペリーにやられたのと同じ)→ 朝鮮宮廷は、1876年江華島条約署名(日朝修好条規)・・イギリスとの条約をモデルにした。江華島条約=朝鮮の独立確認(=中国の宗属関係ではない)、朝鮮の開港、治外法権、関税免除、公使館。
独自の近代を求める朝鮮への内政干渉、覇権をめぐって中国、ロシアと対決-勝利、併合まで朝鮮人民の多くの抵抗を排除し日本帝国に併合。日本の帝国主義の始点が朝鮮である。
「日本人は正式の裁判をうけられるが、朝鮮人は行政官によって刑罰をうけるのである。この制度が、朝鮮総督の委任立法を規定した制令である・・日本の領土であっても憲法が施行されず・・台湾では台湾総督府専制が最初議会で問題(63法問題)になった・・朝鮮では最初から憲法を施行しない腹をきめていた」
山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』P.21
保護国化、植民地併合で数年間も激しい抵抗があった。それも鎮静化されるが、水面下では独立運動の動き。第1次世界大戦の講和会議で、アメリカ大統領ウィルソンによって打ち出された民族自決のアピールは、朝鮮や各地の独立運動を刺激した。運動家で上海に亡命していた呂運亨(ヨ・ウニョン)らはネットワークの中心。1919年1月、朝鮮の皇帝であった高宗が死去。高宗の葬儀に合わせて独立運動を起こそうという計画。3・1運動だ。デモは約3カ月、200万人が参加し、多くの死者と逮捕者を出し、鎮圧された。
独立運動は中国にも飛び火する。呂運亨ら弾圧を逃れたメンバーは上海で大韓民国臨時政府を樹立、上海は独立運動の拠点となる。中国の知識人との接触が活発化し、さらに労働者、農民らを巻き込み愛国運動に発展した。1919年の5・4運動。インドの1919年ガンディ不服従運動との連関が面白い。
金時鐘氏 キム・シジョン。1929年釜山生まれ。母の故郷の済州島で育つ。日本の植民地時代は皇国少年なることを切望。中学の時、解放を迎える。ハングルや歴史の勉強をして、民族運動に目覚める。1948年に済州島4・3事件に加わったが、弾圧の危険にあう。父親が手配してくれた密航船で脱出し、九死に一生を得て日本の大阪にたどり着く。大阪の在日朝鮮人の中で、零細工場で働き、文化サークルに携わる。折からの阪神教育事件で、閉鎖された朝鮮学校の再開活動を行う。本格的に詩を書く。著書多数。『朝鮮と日本に生きる』で2015年大仏次郎賞を受ける。
『朝鮮と日本に生きる』は、一人の植民地被支配者・金時鐘氏の気持ちが出ており、限られたケースではあるが植民地の実相、民族独立運動を知ることができる良書であると考える。日本が切羽詰まってきて“皇民化”を訴えていたとき、金氏は中学生であった。同書の中から、植民地・独立に関する記事を引用した。以下
朝鮮の少年・青年(の一部)が思っていた“内鮮一体”の感じが伝わる。朝鮮人の民族性を消して,〈亜日本人〉化するという朝鮮支配の方針は、満州事変・日中戦争と戦争が激しくなる中で、朝鮮人を完全なる〈皇国臣民〉たらしめんとする〈内鮮一体〉に徹底される。内鮮一体は、日本政府、総督府のキャンペーンのキーワード。日本人となる知識が重要であると認識されて、ハングル知識がおろそかにされた。朝鮮語使用を牽制する罰券というクラスのやり方が紹介されている。
「17歳の時 、解放に出会いました。 解放に出会ったとはいうものの、実際はこれがお前の国だという朝鮮に勢い押し返された私でした。何しろ私は植民地統治という言葉すら知らなかったばかりか、 内鮮一体と言われていた大日本帝国への帰属を、近代開化から取り残されている自分の国、朝鮮が開明されることだとむしろ 自負めいたものを持ち続けていました。それだけに解放は全くもって信じがたい異変でした。」 同書 P.3
「当然のことのように日本人になるための勉強ばかりをしてきました・・ 自分の国についてはからっきし何も知りませんでした・・文字もアイウエオのアひとつ、ハングルでは書き取れない私だったのです ・・茫然自失のうちに 朝鮮人に押し返されていた私は、山も揺れよとばかり町中が、村々が「万歳!万歳!」と沸き返っていたその時、まるではぐれた子犬のように・・ 私は皇民化教育による日本語に取り付くことで、実に多くのことをそ損ねました。中でも自分の父をがっかりさせたことは、一生埋めようがない心の隙間です」同書 P.4
「朝鮮語を習う機会がなかったわけではないのです・・日中戦争が始まった明くる年の昭和13年まで週1時間の朝鮮語の授業がありました・・朝鮮語そのものの使用が禁じられるのは2年後の1940年ですけど、朝鮮語を公に使うことはその前から朝鮮総督府の施策として違反でありました・・でも覚えられなかったハングルでした。どだい身が入らないのです・・生徒の皆が朝鮮語の授業などどうでもいいと思っていました。早く立派な日本人になって天皇陛下の赤子になることが何よりも大事なことだと毎日諭されていましたから・・朝鮮語の授業は支那事変が始まった年の2学年いっぱいでなくなりましたが、それまででも朝鮮語の授業は何かと別の課目になりがちな時間でした 」 P.8
「支那事変が激しくなり・・内鮮一体、皇民化運動は国策標語ともなって・・私たち青少年も日本人になることに夢中・・公の場での朝鮮語禁止・・学校内での国語常用は罰則付きの規則に・・週はじめには、罰券と呼ばれていたカードが生徒各自に10枚ずつ配られ、級友同士が目を光らせ合って、国語を使わない生徒を摘発し合うように・・」P.13
「植民地下の朝鮮には義務教育がなかった・・ 田中角栄は個人的には好きな政治家でしたが、首相の 折、「植民地統治の是非は・・義務教育を施行してくれたおかげで勉強ができたと感謝してくれる韓国の友人を私はたくさん持っている」と国会で答弁・・あまりに事を知らない。義務教育は昭和20年10月1日をもって試行すると、試験的に予定しただけ」 P.12
「創氏改名令が施行され・・掛け値なしの日本人に私もなれた気がして鼻がひくひくしたのを覚えています。とうとう私は家の中にまで国語常用をもちこむ・・国語を知らない母を困らせていましたが、母は淋しい笑みで間に合わせて・・しかし父だけは別で、少々のことでは表情を変えない父が、もろに不愉快さを隠さない・・父はその年代の人としては知識人の部類に入る人でした。地元元山ウォンサンで数少ない旧制中学の学生・・卒業の前年の3・1独立万歳事件のデモに加わって学校を放逐・・満州を放浪・・済州島に居付いた」P.22
「1941年12月・・日米開戦の大戦捷は思わず万歳を叫んだほど・・誇らしく嬉しく・・どこかの兵学校に進むべきだと、親に無断で担任の豊田先生に勇んで申し出ました・・豊田先生は代用教員の朝鮮人教員で、めったやたらに平手打ちを喰らわせる猛烈な大日本帝国教員・・戦車兵学校の入学願書が用意され、保護者の署名捺印が必要・・このとき初めて、父の落涙を見ました」 P.40
「私は、国民学校4,5年のころから詩らしきものを書いていました・・私はどうして日本語に執着し、愛着すら覚えているのでしょう?・・植民地統治下で成長したにもかかわらず、ほのかな香りまでも呼び起こしそうな記憶が日本語に彩られて私の体の中に抱えられて・・私は情感豊かな日本の歌にすっぽり包まれて・・新生日本人の皇国少年になっていった・・人間が変わるというのは過酷な暴圧や強制によってよりも、心情的なごく日常次元のやさしい情感のなかでそうあってはならない人がそうなってしまうのですね」 P.53
「ついにその日がきました・・8月15日・・地鳴りのように歓呼の声が沸き立って・・私は解放の熱気からは一人外れて・・公的機関の国旗掲揚塔には太極旗が翻って・・16日の夕刻から貼り出された「こ奴らを糾弾せよ!」という民族反逆者リスト・・」 P.81
「いろいろな団体が勝手に名乗りを上げ、・・漢ら団・・済州島人民委員会・・9月8日、仁川に上陸したアメリカ駐留軍によって軍政が始まった・・9月6日建国創建を宣布したばかりの朝鮮人民共和国(大統領呂運亨)は否認・・人民委員会にも解散令・・」 P.86
「三カ国外相会議決定で、朝鮮を国連が信託統治することになった。9月6日朝鮮人民共和国の樹立の宣言があり、アメリカは9月8日に進駐してきた。解放軍として熱烈に迎えたのに、9月9日には、マッカーサー布告第一号を発動し、アメリカは軍政をしいて朝鮮人民共和国の否認と人民委員会の解散令」 小熊英二編『在日一世の記憶』 P.567
「解放軍のはずのアメリカ軍が進駐してきて、せっかくの解放にありついた南朝鮮に軍政を敷き、米占領軍司令官ホッジ中蒋の声明によって朝鮮総督府の機能、権威がそのまま踏襲され、公務員の身分まで保障されたことで親日派、民族反逆者の追及を受けて身を隠していた連中までが、大手をふってもとの職責に返り咲く。政財界から司法検察はいうに及ばず、教育界、文化芸術界にいたるまで、あっという間にもとも木阿弥の旧体制が息を吹き返した。民衆の反発が」P.89
45年の朝鮮のアメリカ軍政開始を、アメリカ人記者のマーク・ゲイン氏は書いている。
「改革とか復興とかへの情熱でなく、共産主義に対する恐怖が我々の朝鮮革新の強固な基礎をなしていることを私は知った。・・・略・・我々人民共和国に赤のレッテルをはりつけ、これを地下に追いやるためにまる二カ月間を無駄に過ごしてしまった。これは、我々自身の軍政府とレジスタンス運動に根をもつ民族政府との権限上の争い以上のものだった。双方の理念そのものが全くことなっていた。朝鮮人たちは彼等自身を解放された民族だと考えていた。我々は今日に至るまで、朝鮮を解放しにやってきたのか、占領しにやってきたのか未だに確信がない。朝鮮人たちは対日協力者の手から逃れたがっている。我々は対日協力者たちをそのまま留任せしめただけでなく(事実要員が足りなかったので)、嫌い抜かれていた日本の総督、その役人、警官などまでに、まるで何事も起らなかったかのようにそっくりそのまま仕事をつづけさせた。人民共和国は社会改革を要求したが、アメリカ人たちは根本的な社会・経済改革はすべて拒否した。」 マーク・ゲイン『ニッポン日記下』P.95(シカゴ・サン東京支局長として占領下の日本を取材。上記はゲイン氏が1946 年 10 月16 日にソウルに入り取材したもの)。
4) 植民地政策の成果 イギリスと日本
イギリスも日本も、必死に植民地の意義・利益を高めようと知略を働かせた。イギリスは「植民地政策」の元祖。日本は吸収した。植民地支配者のイギリスおよび日本は、それぞれの植民地について、どのような成果をあげたと言えるのだろう。
4-1)イギリスのインド植民地政策
インドは、財政・軍事・経済・社会の側面でイギリス植民地帝国内の“生命線”とも呼ばれる、重要な位置を占めた。
・18c後半、東インド会社が統括したインド財政は、本国歳入の1/3規模の年1800万ポンド。
・イギリスが経済的にもっとも繁栄した19c。黄金時代のイギリス帝国の中の帝国、それがインド帝国であった(1877年ヴィクトリア女王 インド帝国成立)。
イギリスは、植民地ではない”植民地”も推進。1870年代以降の帝国主義時代と連続する「自由貿易帝国主義論」=「可能であれば非公式支配の貿易、必要ならば軍事力の公式領土併合で、自由貿易を世界各地に強制」 中国が代表例。1840年アヘン戦争→砲艦外交で修好通商条約。
他にも38年オスマン帝国、41年ペルシャ、55年シャム、日本は58年条約。
第一次世界大戦、第二次世界大戦期のインドのイギリスへの貢献は大きかった。イギリスは、それでもインドを食い続けようとしたが、民族独立のインド人の意志、独立運動の広がり、国際的な力関係が合わさり、二次大戦後、インドを手放すことになった。
<プロジェクト>
○産業革命と輸入代替工業化
イギリスの代表的製品の毛織物ではなく、綿織物業関連で産業革命は展開していった。
イギリスで産出しない綿花を原料として、18c後半に相次いだ技術革新によって綿業部門を中心に展開した産業革命(ミュール紡績機の発明1779年)。東インド会社がインドから輸入したキャラコ・モスリンを国産化し、輸出しようとする輸入代替工業化であった。
・イギリスの産業を利するよう、インド産業が重荷を背負う税制改正、イギリス製品のインド内の搬送のインフラ整備。
・綿業の競争は、インド・イギリスの輸出額ベースで、1814年イギリスの輸出額が逆転した。インドの綿業が危機に。18c後半-19c初頭、それまで圧倒的国際競争力を有したインドの現地の綿織物業は、マンチェスター産のイギリス綿糸・綿布の大量輸出に負けた。
・しかしインドでは、現地人資本による近代的な機械化された綿紡績業が立ち上がっていった(インドはじめて紡績工場1854年)。1860年代前半のアメリカ南北戦争による綿花飢饉が起き、代替供給源としてのインドの綿花ブームが加わった。綿花取引で利潤を得て機械紡績業に投資した。インド紡績業の雇用は4万人/1880年→26万人/1914年と大幅に拡大した。
秋田茂『19世紀アジアの経済発展とボンベイ・大阪の紡績業』
○スターリングポンド手形を通じてポンドが世界中を循環する、イギリスを中心とする多角的決済機構が20c初めに確立。
19c末の第4四半期にあたる1873年-96年は大不況
米・独の保護関税の流れの中でも、イギリスは、自由貿易体制を守ること重視。
◯インドのイギリスに対する資金的貢献と本国費
・多角的決済構造の運用にあたり、インドからの黒字が頼りだった。イギリスからインドに対する綿製品の大量輸出を通じて、インドが欧米やアジア間貿易で稼いだ貿易収益を吸い上げる。植民地統治にともなう本国費をインド財政から支払わせる。
・19c後半の本国費は、インド財政の歳出の3割のウェート。19cから20cに急増。
本国費とは、イギリス本国において“インドのために”インド財政から支出される経費。本国のインド大臣が決定し、全体の予算が決まる。中身は、鉄道投資の利子、国防費(現役関係費、退役関係費。年金や失業保険などいたれりつくせり・・インド勤務を志願する軍人・役人が押しかけるわけ)、行政費、レールや機関車=備品購入費。
1910年の支払関係。単位は100万ポンド。
インドは、アメリカ、ヨーロッパ、日本から大幅な黒字を獲得し、イギリスに貢ぐかたち。
インドから入ってくる黒字は
6000万ポンドでイギリスの生命線であった。
引用:
吉岡昭彦『インドとイギリス』
・イギリスの言語政策
植民地において宗主国が自国言語を言葉として強制するという事例、日本のような例はほとんどない。 津田元一郎 『イギリス植民地教育政策の基本的性格』
1823年、ベンガルに教育委員会をつくり研究。イギリスは植民地において母語政策をとった。 インドにおいて英語教育を行ったマコーレー も 一部の者に対する英語教育である。イギリスが考えていたのは 統治 及び経済活動のために 必要な限度で 現地人の 英語人口 確保するというもの。イギリス人のスタイルで、慎重に、経験的に、実利を考え柔軟に対応していった。
イギリスは、経済的利益が第一で、摩擦を起こさない不干渉主義。
<兵力および労働の動員>
第一次世界大戦は総力戦=巨大な人員の必要。
イギリスは、第一次世界大戦時に英領インドから、80万人以上の兵力を動員、
第二次世界大戦における兵力としての動員数は250万 人を超える。
英連邦の各国の戦争協力と比べて、インドの動員数は大きかった。
<民族独立運動の抑制>
・1857年インド大反乱、1905年ベンガル分割令、1919年ローラット法案、1930年塩の行進、1942年インドから立ち去れの運動が、大きな反乱であった。
4-2)日本の朝鮮植民地政策
○朝鮮の国防上の価値
イギリスは、インド植民地にイギリス本国の国防価値を求めていない。経済的に極力絞り上げようと思っている。一方の日本は、朝鮮のことを日本の国防の点から考えている。昨年の「いちょう街道」で最初の帝国議会での山県有朋の国会演説を紹介している。普遍の国防方針として揺るぎない。“朝鮮”は国防の要所である。朝鮮に兵を置き、ロシアと中国からの攻撃にワンクッションとなる。実際に満州事変のときに、満州の居留民を救出するために朝鮮軍が越境して出動した(トップの裁可なく、措置が問題になったが)。
○朝鮮財政の内地依存
朝鮮の租税負担率は、内地、台湾と比べて低かった。朝鮮の国民総生産が低く、朝鮮から税金で召し上げることは難しかった。その結果、補充金と公債金が朝鮮財政に欠かせなかった。内地依存から脱却できなかった。
木村光彦『日本統治下の朝鮮』P.42
負担額とは、1)日本政府の一般会計から 総督府特別会計に繰り入れた補充金
2)一般会計から直接支出したのは総督府官吏の恩給、軍事費。 30年代は、総督府が2)の一部を負担したので、差し引く。日本政府の朝鮮統治費用は35年には0.4%まで低下。
◯朝鮮は、内地製品の良い移出先だった?
内地の製造業生産額の20%ほどが輸移出。朝鮮の受入は、1935年に増え、2.9%になった。
イギリスにとってのインド輸出の割合とは、相当の差である。
<プロジェクト>
○朝鮮産米増殖計画は成功した?
その規模は、年の増産を800万石などと計画、現在の米の価格で計算して、数千億円程度となる。(1石は150㎏、朝鮮産米増殖計画 800万石=120万トン)
米騒動1918年の後年、朝鮮から内地に移出した割合は、13.5%/1935年に高まっている。
○鉱工業の開発。初期の朝鮮総督府は会社設立を許可制とする会社令で運用していた。籾摺り・精米工場の小規模なものから、地下資源を利用する無煙炭、有煙炭、(寺内正毅総督の三菱協力など)鉄山開発、製鉄所、(久原鉱業)非鉄金属、兵器工場、(小野田)セメント、(片倉製糸、朝鮮人経営も)製糸・綿紡織、(王子製紙)紙パ、(野口遵、6代総督の宇垣一成の協力)大規模電源開発・化学工業などへ。
総力戦体制で、30年代に本格化。
工業総生産額に占める重化学工業生産額の割合は、6%1911年→12%1920年→17%1930年→40%1939年。木村光彦『日本統治下の朝鮮』
・進出企業の特徴:三井等の三大財間合計12%、鐘紡等の三大紡合計10%、新興財閥の日窒系36%、日産系12%、国策会社の東拓系11% で合計59%、朝鮮人系の割合は低い。河合和男『植民地期における朝鮮工業化について』
◯朝鮮水力電気プロジェクト「1922年から調査を始め・・29年には赴戦江第一発電所の送電開始、30年この電気をもとに朝鮮窒素肥料興南工場が操業を始めた・・北朝鮮の一漁村興南は人口10万人の工業都市に生まれ変わった・・朝鮮では重要産業統制法が施行されていなかった・・日本資本が入って・・朝鮮では工場法が施行されておらず・・未成年労働者も多く、魅力であった」
山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』P.189
◯朝鮮産業政策の根本指針としての「大陸兵站基地」(38年南次郎総督の訓示)
満州事変のときは、対中国作戦軍に対し食糧、雑貨を供出したが、内地よりの海上輸送路を遮断されても大陸作戦軍に対して朝鮮のみで補充できるようにという目標の下、軍需工業育成を図った。
<兵力および労働の動員>
「植民地の住民の戦争動員。 陸軍は、2400万人の人口規模の朝鮮からの動員を行った。38年に日中戦争が泥沼化すると総督府は志願兵制度を始め、太平洋戦争中期になると海軍も志願兵を。
朝鮮では1940年に8万4千人の志願兵の応募。台湾でも多くの志願兵。志願兵の多くに様々な圧力(募集当局の「道義の高揚」のレトリックも)がかけられたことは疑いないが、青年たちが「軍隊が、日本人よりも優秀であると証明する場」と情熱を燃やしたことも。
1939年国民徴用令によって、日本国民(および植民地住民)は労働力徴用される義務。
連合国爆撃を避け朝鮮・満州に移転した工場もあった。中国大陸・樺太・太平洋方面への徴用も。
太平洋戦争の戦況が苦しくなり、1944年に朝鮮も徴兵制を開始。」
ピーティー『植民地』 P.315-P.318
戦前期の日本では、狭小な国土・膨大な人口=「人口過剰」の認識が強く、朝鮮半島の余剰労働力が内地へ流入するなどとんでもないと思っていた。ところが日中戦争で戦時体制になり、内地の労働市場が逼迫し、労働環境は一変。不足を埋めるために、朝鮮半島の労務動員計画を作り、42年以降は、総督府が差配する官斡旋方式に全面的に移行した。44年から徴用に一本化されていった。
朝鮮半島からの労務動員 (人)
| 動員先 ↓ | 1942年度 | 1943年度 | 1944年度 |
| 朝鮮 | 384,729 | 746,633 | 2,663,016 |
| 日本 | 119,986 | 130,646 | 289,432 |
| その他 | 16,502 | 5,648 | 7,796 |
| 合計 | 521,217 | 882,927 | 2,960,244 |
引用:木村幹『総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察 ―人的動員を中心にして』
朝鮮半島からの兵力動員 (人)
| 1938 | 39 | 40 | 41 | 42 | 43 | 44 | 45 | |
| 志願者 採用数 | 408 | 613 | 3,060 | 3,208 | 4,077 | 10,417 | 2,000 | |
| 徴兵数 | 65,000 | 65,000 |
引用:木村幹『総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察 ―人的動員を中心にして』
<独立運動の抑制、治安維持費の増加>
1919年3・1運動の弾圧。
1948年の済州島4・3事件は、日本・総督府の敗退後でアメリカ軍の指揮下であるが、日本総督府時代の親日派朝鮮人が関連している抑制。
3.1運動の後、警察・憲兵関係の治安維持費が大幅に増大。一般歳出の30%を超えている。
総督府の歳出 単位:千円
| 総額 | 一般歳出 | 内治安維持費 | 官業費 | 国債費 | |
| 1911 | 48,741 | 36,940 | 6,551 | 10,068 | 1,733 |
| 1918 | 65,141 | 35,877 | 7,453 | 21,590 | 7,674 |
| 1919 | 77,560 | 46,961 | 8,369 | 24,567 | 6,032 |
| 1920 | 111,316 | 73,305 | 22,736 | 33,570 | 7,441 |
| 1921 | 162,474 | 84,247 | 29,871 | 68,742 | 9,485 |
| 1930 | 239,729 | 95,176 | 29,350 | 121,028 | 23,525 |
| 1931 | 238,923 | 94,178 | 28,079 | 120,038 | 24,707 |
| 1932 | 220,140 | 89,882 | 27,310 | 107,169 | 23,089 |
| 1936 | 329,645 | 119,811 | 30,837 | 178,822 | 31,012 |
引用:木村光彦『日本統治下の朝鮮』
5)日本の朝鮮植民地支配は何であったのか
イギリスのインド支配と、日本の朝鮮支配を見てきたが、さまざまな違いとそれ以上に共通する特徴が出ていると思った。チャーチルではないが、植民地を支配する鉄の意志。あくまでもしゃぶり尽くす。逆らうものがあれば、身柄を留置し、弾圧し、銃殺・処刑する。抵抗を事前に察知する公安警察、マスメディアを足の下に置く“飴と鞭”。目的のために合理的な行動を徴ることに関して、日本とイギリス政府はよくできていた。
次に日本の植民地政策の特徴と“何故”を書いていく。
伊藤博文は、帝国憲法を制定し、初代の総理大臣になり、本格的政党政治の緒を開いた明治政治の最高峰である。伊藤博文は、1905年韓国国王高宗と対し、韓国を保護国化し、文明国たらしめんと声明を出した。伊藤は統監に就き、韓国守備軍に対する指揮命令権を持った。文官がトップに就くのは明治憲法下で唯一の例だ。軍部独走が懸念される中、大日本帝国憲法の立憲主義を貫き、軍のコントロールに立つという伊藤のポリシーが現れている。韓国の併合には反対していた伊藤だが、小村寿太郎外相と桂太郎首相が韓国併合の方針を決めた1909年に、伊藤は併合後の統治構造をデッサンしたメモを残している。「上下両院の議会制度と統監に代わる副王によって監督される韓国人内閣が、主たる統治機構として考案され、特筆すべきは、伊藤が併合後も、議会を開設し、韓国人による責任内閣の構築を構想していた。国家としての韓国を解消させたとしても、独立した植民地議会を設け、最大限の自治を保障するという考えを伊藤は抱いていた・・韓国民の文明度が高まり、自治能力が備わって議会政治が根付いた暁には、韓国再独立の道が開かれ真の日韓同盟が築かれるとの伊藤の夢が託されているように思える」と瀧井一博氏(『伊藤博文-知の政治家』)が記している。
植民地を具体的にどのようにやっていくのか、日本は研究を怠らなかった。伊藤博文はイギリスの植民地学者のカークウッドに台湾視察を頼み、意見を集めている。
欧米では、原住者の協力を得る努力を行うという。それが破綻したときは公然たる支配を行う。
伊藤博文に求められ、1898年カークウッドは、次のように植民地学の知見を述べている。
第一の原則 目的は人民をして政府に悦服させると云ふこと、第二の点は収支をして相償・・でき得べきならば入るものをして出るものより多からしむること。
引用:野村明宏 『植民地における近代的統治に関する社会学 : 後藤新平の台湾統治をめぐって』
日本の植民地の経済的メリットが小さいことは多くの人が分かっていた。第一の目的が日本の国防だから次元が違う。欧米・ロシア・中国に侵攻され、地域を取り返される恐れを抱いていた。一方で朝鮮は、資源が少なく人口が密集して、(農地の開墾も、日本内地からの移民のための用地も)新規開発の余地があまりない。
日本は朝鮮半島に2個師団、台湾に2個連隊を置いた。これが日本が置かれていた防衛上の現実。イギリスが東アフリカに1個大隊しか置いていないことと対照的。(ピーティー『植民地』P.169)
日本の植民地は、原住者による植民地軍を編成しなかった。イギリスやフランスは、インド軍やセネガル軍の植民地軍が現地の反乱鎮圧に利用された。日本でも台湾で乃木希典総督が原住者植民地軍を編成したことがあるがうまく行かなった。朝鮮でも企画されたが不成功。植民地軍を使えずコストを抑えられなかった。朝鮮人・台湾人の忠誠心が信頼できなかったこと、欧米軍が攻めてきたときに朝鮮台湾原住者が呼応してしまうから、と言われている(このため日本人部隊に分けて入れ、原住者だけの軍は編成しなかった)。
寺内正毅陸軍大将が初代の朝鮮総督に就いた。就任を前に検討していた事項が、1910年に 作成された総督府の「教化意見書」に残っているが、同化の強制と民族性の配慮の微妙な気持ちが現れている。
「教育勅語の精神とか そんなことは 朝鮮の人には難しいし、”同化”には限界。しかし列強の批判があるし、朝鮮の民族主義の台頭も心配。朝鮮人を日本人に(改造する)丁寧な教育は必要。日本語の授業を多くとり、忠誠心の育成も。朝鮮語には関心がないが、止めると 反発が心配。漸進主義で徐々にやっていく。」
引用:小熊英二『<日本人>の境界 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮:植民地支配から復帰運動まで』
寺内総督は、法的問題・統治問題に関して、東京大学の山田三良教授に教えを乞うた。
問われた山田三良は 「韓国は 国ごと来るわけだから、台湾は中国とあるけれどもそれとは違って 韓国は日本の国籍を持つ。対外的には日本人であるが、国内においては日本人ではない。戸籍によって国内的には日本人から排除する」。
当時の新聞世論の様子は、小熊英二の『<日本人>の境界』を参照。
欧米の脅威がある朝鮮では、イギリスの先生が言う現住者の“協力を得る”ではおさまらない。
絶対的な忠誠を求めたい。このために、日本は、朝鮮の保護国化ではなく植民地併合に進んできたわけだし、教育面では徹底した日本への同化、愛国教育ということになる。結果は、統治コストが増嵩し、原住者の反発を招いた。
同化教育は、厳しいものだった。日本語教育だけではなくて、絶対的な忠誠心のためには、朝鮮人に旧来の言語や文化を捨てるという犠牲を払ってもらわなければならないと。
朝鮮、台湾の統治において、日本の一部として包み込むのか、植民地として置くか(「日本」から排除するのか)揺れていた。人口が少ない沖縄は組み込んだが、調整ができそうだから。人口が大きい朝鮮・台湾では、影響が大きく、踏み切れない。参政権、徴兵、義務教育は難しい問題になる。
朝鮮人や台湾人の所属の問題では、日本国籍であり、対外的に日本の領土は拡がることになるけれど、戸籍は日本人とは異なり、朝鮮の戸籍。
以上のように慎重な植民地統治であったが、戦時下、総力戦体制で、同化政策が強力に進められた。一枚剥けた時である。
「1931年以後国家的な危機感と軍事色の増大によって、植民思想には硬直した保守主義が蔓延し、統制・搾取・強制的同化が支持されることになった。それまでのわずかばかりの自由主義的な改革の成果や住民の利益への妥協も・・否定された・・帝国は再び拡張主義的となり・・遼東半島、朝鮮、満州、華北と拡張・・日本の指導者たちは、新たに占領された地域を含めた帝国領土がアジア人で構成された一体不可分・・人種的一体性の名の下に正当化され・・日本帝国は急速かつ意図的にヨーロパの海外植民地主義のモデルとの一体性を失っていった・・同化はあらゆる植民地の統治方針とされた・・「一視同仁」の標語は、権利平等の意味を薄め、義務平等を強調した。植民地学者の新渡戸稲造・矢内原忠雄が主張した「同化とは数世紀を要する過程である」は忘れ去られ、国内外の危機の重圧下、植民地住民を日本の体系に押し込め、利用。1937年には、これが「皇民化」運動に推し進められた。
ピーティー『植民地』 p.156,157
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植民地に関するケーススタディ
石原慎太郎氏の回顧談を見た。次のとおりだ。
私は最近列強の植民地支配について研究しているというイギリスの学者の『朝鮮が瞬間的に幸せになった時代』なる本を贈られて読んだが、それはまさに日本の朝鮮統合についての記述だった。断っておくが、日本の朝鮮統治は植民地支配ではなしに、あくまで彼らの議会が裁決し自ら望んで行われた合併であって、それによってこそ朝鮮の近代化は進みロシアへの属国化は免れたのだ。
ある時酒の席で朴元大統領は思いがけぬ述懐をしてくれたものだった。「自分は貧農の息子で勉強をしたくてもできずにいたが、日本人がやってきて子供を学校に通わせぬ親は罰を食う、ということで親も嫌々許して小学校に通うことができた。そこでの成績がよかったので日本人の校長に勧められ、ただで通える師範学校にいかされた。さらにそこの校長が私を見込んで、これからは軍人の時代だからと推薦されて満州の軍官学校に送られ首席となった。そして、他にもいた日本人の子弟をさしおいて卒業の際には代表して答辞を述べさせられたものだ。あれだけの事をさせる民族はあまりいないと思うな」と
(2015.11.21 石原慎太郎 「日本よ、ふたたび」 産経新聞)
植民地問題のおさらいになるので、石原氏の言説に対するコメント加えたい。
・「議会が裁決し自ら望んだ合併」・・1905年伊藤博文は韓国保護のための外交事務委任のお願いで高宗に謁見する。高宗が朕には権限がなく、政府臣僚に諮詢する必要があると断ったので、伊藤博文は、韓国は憲法政治ではなく万機陛下の親裁の君主専制国ですよ、人民を扇動するの、と切って捨てた。 引用:瀧井一博『伊藤博文』 また政治家として経験深い石原氏ならば、政治の華・極意は“砲艦外交“となぜ言わないのかと思う。
・「韓国の近代化成功とロシア属国化排除」・・日本は韓国の近代化・文明化と独り立ちを望んだ。韓国の文明化に対していささかの役立ちがあったかもしれない。しかし本旨は日本の国防問題であり、ロシアの再攻撃の防止である。であるから、声を大にして、”日本の役立ち”を言うことは、いかがかと思う。
・「朴正煕は、子供を学校に通わせぬ親は罰を食う、として、小学校の義務(?)教育を受けた」・・伊藤は統監時代、教育政策に取り組んだ。しかし韓国エリートとの教育観の違い、それ以上に日本本国からの教育投資額の獲得の失敗のために、政策を撤回した。本稿の中の金時鐘氏の述懐の中にも出てくるが総督府は朝鮮財政政策として、教育軽投資を選択し、義務教育を拒んだ。総督府が実施した学校は有料。さらに、朝鮮は教育思想が盛んであり、市中には、日本の寺子屋のような儒塾、朝鮮で盛んなカソリック系教育が盛んで日本の官の教育は対抗上、大変だった。
・「上の学校進学を勧められ、卒業式の答辞を述べた」・・イギリスの政治操作の得意技であり、また世界中の政治に共通する技は「分断」である。人民をエリート層と平凡な層に分断する、資本家・ブルジュア・地主と労働者・農民・小作、ヒンズー教徒とムスリムなどなど。イギリスは富裕層でイギリスの大学を卒業している層、エリートによって構成される「国民会議派」が穏健な行動をとるので助かった(ガンディという稀有の天才政治家によって、大衆運動に火が付いていって崩れた)。日本は韓国の役人や右翼を親日派として遇して、植民地体制を守っていった。政治学の定番の作戦道具を取り立てて「朴正煕が感心している」と言うことは違うんじゃないかと思う。
朝鮮総督府の国籍問題の取り扱いなど興味深い点があり、引き続き取り組んでいきたい。
参考文献
三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』岩波新書 2017年
長崎暢子『インド独立』朝日新聞社 1898年
ネルー『父が子に語る世界歴史』3巻、4巻、5巻、6巻、8巻 みすず書房 1966年
ガンジー ネルー『世界の名著 77』中央公論社 1979年
秋田茂『イギリス帝国の歴史』中公新書 2012年
秋田茂『「大分岐」を超えて アジアからみた19世紀論再考』ミネルヴァ書房 2018年
吉岡昭彦『インドとイギリス』岩波新書 1975年
堀田善衛『インドで考えたこと』岩波新書 1957年
君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下)』中公新書 2015年
浜渦哲雄『イギリス東インド会社-軍隊・官僚・総督』(中央公論新社 2010年
マーク・ピーティー『植民地』読売新聞社 1996年
金時鐘『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年
小熊英二『「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』新曜社1998年
小熊英二編『在日一世の記憶』集英社新書 2008年
マーク・ゲイン『ニッポン日記下』筑摩書房 1951年
山辺健太郎 『日本統治下の朝鮮』岩波新書 1971年
木村光彦 『日本統治下の朝鮮』中公新書 2018年
木村幹『総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察 ―人的動員を中心にして』
日韓歴史共同研究報告書に所収 2005年
木村幹『韓国現代史』中公新書 2008年
瀧井一博『伊藤博文』中公新書 2010年
鈴木道彦『越境の時 1960年代と在日』集英社新書 2007年
徐京植『ディアスポラ紀行』岩波新書 2005年
徐京植『皇民化政策から指紋押捺まで』岩波ブックレット 1989年
安田浩一『ネットと愛国』講談社 2012年
井戸まさえ『日本の無戸籍者』岩波新書 2017年
野村明宏 『植民地における近代的統治に関する社会学 : 後藤新平の台湾統治をめぐって』京都大学社会学年報 1999年
インターネット
朝日新聞 歴史は生きている『日露戦争と朝鮮の植民地化』 2007年
秋田茂『19世紀アジアの経済発展とボンベイ・大阪の紡績業』
河合和男 『植民地期における朝鮮工業化について』
大沼久夫 『米国による占領統治比較研究 ―沖縄・日本本土・南朝鮮―』
津田元一郎 『イギリス植民地教育政策の基本的性格』
菊池絵里『別子銅山の戦時中における外国人労働者の実態と役割』
麻生さんの低知性にガックリ
例によってですが、またしても麻生太郎副総理兼財務相がとんでもない失言を繰り返しました。
1月13日、地元・福岡県飯塚市で開いた国政報告会で述べたもので「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」との発言です。
日本はいつから単一民族になったのか
日本の若者をミスリードしかねない政治家の戯言 伊東乾 から引用する。
ちなみにそもそも「秩父」という地名そのものが「秩父別(ちっぷべつ)」、わたしたちがこえてゆく川といった意味合いのアイヌ語に由来し、つまるところ「荒川中流に開かれた古代からのアイヌ盆地文明の地」の中心であったことが示唆されている。
とてもではないが「2000年来 単一民族 単一言語 単一王朝」など、おかしくて臍が茶を沸かすお笑い種でしかありません。
では、日本に「単一民族」などという虚妄が導入されたのはいつのことか?
・・1873年、つまり、冒頭に挙げた「琉球処分」の翌年のことです。
「徴兵令」が敷かれて以降、むりやり導入したもので、当初はちっとも普及しませんでした。
1873年は明治6年、・・まさに近代の夜明け前で、本当の意味で日本に「単一民族感」が普及するのは、「日本人」が兵隊として大挙して「朝鮮半島」や「中国」に出兵し、現地で戦争に勝って利益を得る「日清戦争」以降のことです。
夏目漱石の小説が描く「ちょうちん行列」などで庶民にも「日本」という統一単位が認識される1895年以降のことで、そのような考え方は1945年に本質的には否定されている。
つまり、たかだか125年前に捏造され、75年前に終了している例外的な50年の間に喧伝され、日本を破滅戦争に導いて抹消された「おわこん」にほかなりません。
マハティール首相の日本警告
マレーシアのマハティール首相は、アジアで最も名が知られた政治家の1人であり、その言葉は国内外に影響力を持つ。最初の首相在任は22年間に及び、日本などの発展に学ぶ「ルックイースト(東方)政策」を唱えた。そして昨年2018年、15年ぶりにその座に返り咲いた94歳の目に、いまの世界、アジア、そして日本はどう映るのか。
ガンディは、日本の何に怒ったか?
引用は、 “To Every Japanese” by Mahatma Gandhi
日本の全ての方々へ
著: マハトマ・ガンジー
訳: The Creative CAT
始めに告白せざるを得ません。あなた方を敵視しているわけではありませんが、私はあなた方の中国に対する攻撃を激しく憎悪しています。あなた方は立派な高みから帝国の野望へと落ちてしまったのです。あなた方がその野望を実現することはできないでしょうし、あるいはアジアを分断した張本人となるかもしれません。かように、あなた方はそれと知らぬうちに世界の連盟と同胞愛とを妨げているのであり、そのような連盟や同胞愛なしには人類の希望はあり得ぬからです。
五十年以上の昔、十八の若造としてロンドンで学んでいた頃から、私は故サー・エドウィン・アーノルドの著作を通じて、あなた方の国が持つ数多くの優れた資質を賞賛するようになりました。南アフリカ滞在中に、あなた方がロシア軍に対して見事な勝利を収めたと知った時はわくわくしたものです。一九一五年に南アフリカからインドに帰国してからは、私どものアシュラム修行場に折々属していた日本人僧侶たちと親しく交流するようになりました。その内の一人(*1)はセバグラムのアシュラムの貴重な一員となり、その精進ぶり、堂々たる忍耐力、日々の礼拝への不屈の献身、愛想の良さ、種々の状況にも動じぬ姿、平和な内面を明瞭に物語る自然な微笑み、これらのために私ども皆から慕われたのです。そんな彼も、今ではあなた方が大英帝国に対し宣戦布告したせいで連れ去られてしまいました。愛すべき同僚だった彼がいなくなったことを悲しく思っています。今でも彼を思い出す縁があります。日ごとの祈祷と小さな太鼓。私どもは朝夕の祈りを始める時、この太鼓を鳴らします。
かように愉快な記憶を背景として、私の目には正当な理由なく開始されたと映る対中攻撃および、もし報道が正しいとすれば、かの偉大なる古の土地に対するあなた方の情け容赦ない蹂躙を鑑みるに、私は深く嘆き悲しむのです。
世界の列強と肩を並べようというのは、あなた方の立派な野心でした。中国への攻撃と枢軸国との同盟は、実に、その野心を不当なまでに割り増したものだったのです。
あなた方がかの偉大なる古き人々の隣人たることを誇っていると、本来ならばそう考えるべきなのでしょう。あなた方はその隣人の古典文芸を自らのものとしてきたではありませんか。互いの歴史、文化、および文学についてあなた方が持つ理解、それはあなた方を現在そうであるような敵同士ではなく、友人として結びつけるべきものなのです。
もし私が自由人であり、あなた方が入国を許可してくださるならば、衰えた体に鞭打ち、健康上の危険性も、命すらなにするものぞとあなた方の国に参上し、あなた方が目下中国および世界に対して、従ってあなた方自身に対してもなしている過ちを思い留まるようにと懇願することでしょう。
しかし私にはそのような自由がありません。また私どもは帝国主義に抵抗せねばならぬ独自の立場にいます。私どもはあなた方の野望やナチズムに負けず劣らず帝国主義を嫌悪しています。私どもの抵抗は英国の人々を傷つけようとするものではありません。彼らを変えたいのです。私どもは丸腰で英国の支配に抗っています。この国のある重要な政党(*2)は異国の支配者に対し断固たるしかし友好的な抗論を続けています。
とはいえ、彼らは外国勢力の援助を必要としていません。実際の所、あなた方はひどく騙されているのです。あなた方のインド攻撃が差し迫ったこの時期を狙って私どもが連合国を窮地に陥れようとしているというのは、誤った情報です。英国の困難に乗じて自分の好機としたいのでしたら、私どもは三年近く前、開戦直後にそれを実行していたことでしょう。
インドから英国の勢力を退けようとする私どもの運動は、いかなる誤解も受けるべきではありません。仮に、あなた方がインド独立を熱望しているとの報道が信に足るなら、かかる独立が英国によって承認された暁には、あなた方のインド攻撃は弁明しえないものになるのです。のみならず、報道されているような宣言は、あなた方の中国に対する手段を選ばぬ侵略行為とは相容れないのです。
自分たちはインドで心から歓迎されるだろうと信じておられるなら、あなた方は悲しいほど幻滅させられるでしょう。この点を決して誤解されないように願います。英国追放運動の目標と狙いはインドを整備することにあります。そのためにあらゆる軍国主義者や帝国主義者の野望に抵抗する自由を得ようとしています。それが大英帝国主義、ドイツのナチズム、あなた方のそれと、いかなる名前で呼ばれようとも。さもなければ、私どもが非暴力の中に軍国主義的精神やその野望に対する唯一の解決策を求めているといくらあなた方が信じようと、私どもは恥ずべき傍観者として世界の軍国主義化を眺めるだけになっていたでしょう。個人的に私は恐れています。インド独立宣言なしには、暴力を宗教的な尊敬の対象に祀り上げる枢軸国に対して、連合国側は抗し得ないのではないかと。あなた方が行っているのと同様の無慈悲で練達した戦争行為を採用しない限り、あなた方やあなた方の同盟者を倒すことはできません。もしも連合国がそのような真似をするなら、民主主義と個人の自由のために世界を救うという彼らの宣言は無に帰さざるを得ないのです。彼らが力を得られる方法は一つだけだという気がします。それはあなた方の冷酷さを模倣しないことであり、今すぐインドの自由を宣言し承認し、嫌がるインドを無理やりに協力させるのではなく、自由なインドの自発的な協力を得られるならばそれが可能なのです。
私どもは英国と連合国に対し、正義の名において、彼らの宣言の実証として、彼ら自身の利益に沿って抗議の声を上げてきました。あなた方に対しては、人道の名において訴えます。無慈悲な戦争には最終的な勝者がいない、ということが何故あなた方にはわからないのか不思議でなりません。連合国でなくても、疑いなく他の何らかの勢力があなた方の手法をより進め、あなた方の武器によってあなた方を打倒するでしょう。仮にあなた方が勝利を収めたとしても、あなた方の国民が誇りに思えるような遺産を残すことはできないのです。熟達の技たる残虐行為を延々聞かされて誇りを持てる者などいません。仮にあなた方が勝利を収めたとしても、それはあなた方に正義があったことを証明するのではなく、ただあなた方の破壊力の方がより大きかったということを証明するだけです。これと全く同じ話が、インドを直ちに誠意をもって自由にし、隷属せられたアジアやアフリカの全人民を同様に解放すると約束しない限り、連合国側に対しても成立します。
私どもの英国への抗議は、自由インドが自発的に連合国軍の駐留を認めるという提案と結びついています。私どもには連合国側の大義を傷つける意図が一切ないことを証明し、同時にあなた方が、英国撤退後の空白地帯へ足を踏み込まないでいられるものかと感じることがないように、これを提案したのです。繰り返す必要はないでしょう。あなた方がこの手の考えを抱き、実行するなら、私どもは必ずや国の持てる力を糾合してあなた方に抵抗します。あなた方およびあなた方の同盟者にも影響を及ぼせるように、そしてあなた方が正道に戻るようにとの希望を込めて、私はこの請願を書いています。このままではあなた方の道徳は崩壊し、人間はロボットに堕してしまうでしょう。
あなた方が私の請願に応えてくれるというというのは、英国に比べ遥かに望み薄です。英国人は正義感を完全に失っているわけではなく、しかも彼らは私を知っています。私は判断がつく程あなた方を知ってはいません。私が読んだものは全て、あなた方には請願を聞く耳がなく、もっぱら武器の言うことだけを聞くのだと語っています。それらの文章が全て誤っており、私があなた方の琴線に正しく触れられたらいいのにとどんなに祈っていることか! 何はともあれ、私には、人間たるもの必ずや応えてくれるだろうという不滅の信条があります。迫り来るインドでの運動を着想したのはこの信条がもたらす力に支えられてのことであり、あなた方にこの請願をしようと思い立ったのも、この信条に基づくものなのです。
セバグラムにて、
一九四二年七月十八日
あなたの友人にして幸運を請願する者たる
M. K. ガンジー
植民地というものを教える香港と中国
政治犯強制逮捕法で脅かされ、ついに香港の市民は立ち上がった。本家の中国は、香港市民のデモを弾圧した。そして昨日、香港の区議会選挙があり、民主派が85%の議席を得て大勝した。区議会議員というのは、バス停を増やす要望・ゴミ収集の要望に取り組む、”町内会長に毛が生えた”(峯村健司氏談)ようなものらしいが、注目が集まった。この後の展開に注目。
「植民地」といえば、日本に対する台湾・朝鮮、イギリスに対するインド、1960年代のフランスに対するアルジェリアなどが挙げられる。植民地やそれからの解放、それがどういうものであったのかを感じることができるのが、今回の香港・中国だ。
【音声配信】香港区議会議員選挙は民主派の歴史的大勝。この結果は香港に何をもたらすのか?▼峯村健司×倉田徹×荻上チキ▼2019年11月25日(月)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」
香港ではきのう24日、区議会議員選挙の投票が行われ、香港政府や中国政府に批判的な立場をとる民主派が85%を超える議席を獲得し、歴史的大勝となりました。現地のメディアによりますと、投票率は過去最高を大幅に更新する71.2%となり、民主派は452議席のうち、385議席を獲得。これに対し、親中派は選挙前の292議席に比べて、5分の1となる59議席に減らし、区議会議長やベテラン議員などが次々と落選しました。
この結果を受けて、来日中の中国の王毅(おうき)外相は「香港は中国の一部です。香港の安定繁栄を破壊する者は許されません」と述べ、抗議デモに対し引き続き強硬姿勢で臨む考えを強調。一方で、圧勝をおさめた民主派の議員たちも抗議活動の継続を明言し、香港情勢は予断を許さない状況が続いています。今回は、現地の様子、そして中国やアメリカなどの対応など、香港の内外から、この選挙結果が香港に何をもたらすのかを考えました
99歳の特攻隊の方の経験を聞く
現状把握は難しい。把握するツールの1つは、歴史の理解、振り返りとそこからの現状の危なさの理解だ。
特攻体験を持つお二人の話を参考にしたい
引用:毎日新聞
元特攻90代兄弟が「最後の証言」 時代に迎合を悔恨「なぜ死ぬ覚悟で戦争に反対しなかったか」
毎日新聞 2019/11/22 13:06米中激化なら「世界大戦」北京で警鐘高崎線などの川口駅停車、暗礁に
© 毎日新聞 講演した岩井忠正さん(左)と忠熊さん(中央)。忠正さんの娘直子さん(右)が傍らで補助した=東京都新宿区の早稲田大学で2019年11月9日午後1時53分、川上珠実撮影
太平洋戦争中に学徒出陣し、特攻隊員になった兄弟が9日、東京都新宿区の早稲田大で講演した。岩井忠正さん(99)と忠熊さん(97)。今はそれぞれ東京、滋賀と離れて暮らすが、どうしても若い世代に「最後の言葉」を伝えたいと顔をそろえた。これまでそれぞれ講演する機会はあったが、兄弟そろって話すのは最初で最後かもしれない。2人が伝えたかったメッセージとは――。
2人は10人兄弟の五男、六男として熊本市で生まれた。忠正さんは慶応大、忠熊さんは京都帝国大(現京都大)に進み、ともに在学中の1943年12月に旧海軍に入隊した。戦況が悪化の一途をたどる中、忠正さんは人間魚雷「回天」と人間機雷「伏龍」の隊員となり、忠熊さんは爆薬を積んだモーターボートで敵船に体当たりする「震洋」の艇隊長になった。
「2人とも生きては帰れないだろう」。入隊前、兄弟で先祖の墓参りに行ったとき、道中の汽車でそんな会話を交わしたという。実際に軍隊生活は死と隣り合わせだった。忠熊さんは海軍徴用船に乗船中に米軍に攻撃され、海に放り出されて約3時間漂流した。忠正さんも「伏龍」の訓練で海底に潜水する際に酸欠で気を失った。
辛くも2人は生き残ったが、多くの若者が特攻隊員として命を散らし、遺書が残されている。「遺書には勇ましい言葉が書いてある。『私は喜んで死ぬ』と書いてあるのを読んで感激する人もいるはずです。だけど、私は、待ってくださいと言いたい」。忠正さんは会場にこう呼びかけた。
この話をしようと思ったのは娘の直子さん(60)との会話がきっかけだった。直子さんは特攻隊の記録を展示する記念館で隊員の遺書を読んだ際、「あの方たちは教育を受けてああいう気持ちで死んでいったんだ」と思ったという。それを聞いて忠正さんは、当時検閲があったことや、家族を悲しませまいと自分を奮い立たせる隊員の心境を話して聞かせたという。すると、その「実態」を講演で話すべきだと直子さんから促されたという。
忠正さんは、命を落とした隊員の無念を代弁するように語気を強めて会場に訴えた。「本当は死にたくない。でも(死ぬのが)嫌なのに殺されたと聞いたら家族も悲しむから、喜んで死んだと思ってもらおうと。もう一つは自分を励まさなきゃやれない。決して犬死にじゃないと自分を奮い立たせて慰める気持ちの表れなんです。そういうことを理解してやらないといけない。つらいんですよ、本人は……」
忠正さん自身、当時、内心は戦争には批判的だった。海軍で上官から毎日のように暴力を振るわれ逃げ出したい一心で特攻隊員に志願した。「もし遺書を書くとすれば自分も同じことを書いていた」と打ち明けた。
最後に、若者に何を伝えたいかと司会者に聞かれた2人の口から出てきたのは後悔の言葉だった。忠正さんは「この戦争は間違っているとうすうすながら分かっていたにもかかわらず、沈黙して特攻隊員にまでなった。死ぬ覚悟をしてるのに、なぜ死ぬ覚悟でこの戦争に反対しなかったのか。時代に迎合してしまった。私のまねをしちゃいけないよ、と今の若い人に伝えたい」。忠熊さんも「戦争を二度と繰り返さないためにはどうしたらいいのか、特に青年、学生がどうするかによって未来が変わる。そのためには歴史に学んでほしい」と。
◇ ◇
講演会は戦場体験者らでつくる「不戦兵士・市民の会」が主催した。約250人が会場を埋め尽くし、立ち見も出た。講演後、慶応大4年の金澤彰太郎さん(22)は「後輩として心に刻みました」と忠正さんに握手を求めた。「兵隊に行った人の話を生で聞いたのは初めて。その時の気持ちが聞けて良かった」。早稲田大1年の山田凪紗(なぎさ)さん(19)は「時代の流れに迎合した、という言葉が心に刺さった。まだ知識がないから、未熟だからと声を上げるのをためらうことがある。声を上げて行動する大切さを実感しました」と話した。【川上珠実】
特攻兵器
爆薬を携えて敵に体当たりする特別攻撃(特攻)のために旧日本軍が開発した兵器。太平洋戦争末期、戦況悪化とともに使われるようになった。人間魚雷「回天」には「戦局を逆転する」という願いが込められ、隊員が乗り込んで操縦して敵船に体当たりした。人間機雷「伏龍」は潜水服を着た兵士が海底で待ち伏せし、竹の棒に取り付けた機雷で敵船を突いて自爆した。「震洋」は船首に爆薬を積んで敵船に体当たりする1~2人乗りの木製のモーターボート。「回天」は出撃などで戦死した搭乗員が87人、訓練時の事故で殉職した搭乗員が15人いた。